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小澤征爾という存在

1月3日にNHKで放送された
世界のマエストロ〜入魂の1曲〜を見て・・・・
 
小澤征爾 75歳
一体なぜ、たった一人の人間の覇気が
これほどまでに演奏者と音楽を変え、世界の観客の感動を起こしていくものなのか
小澤征爾が今の日本に存在していること自体
私にとっての励みであり活力の源泉であると深く感動した
 
改めて小澤征爾のプロフィールを紹介してみよう
 
1935年 中国の奉天に生まれる
      小澤家4人兄弟の3番目
1941年 日本に引き上、東京立川市に住む
1948年 成城学園中学校に入学
      日比谷公会堂の日響のコンサートでレオニード・クロイツァーが
      ピアノを弾きながら皇帝を指揮したのを見て指揮者になろうと決心 
      遠い親戚でもある 斉藤英雄を訪ねる
1952年 桐朋学園音楽科の指揮科第一期生
1955年 桐朋学園短期大学に入学
     斉藤英雄の厳しい指導の下卒業後も行動を共にする
 
1959年2月1日 富士重工からラビットスクーターを借り
     貨物船で神戸からマルセイユに渡る
     2週間かけてバイクの宣伝をしながらパリに・・・
     まさしく無邪気さと好奇心が一体となったハングリーさが微笑ましい
     小澤にはこれだけで終わらない実力があった
1959年9月
    たまたまパリ滞在中に知ったブザンソン国際指揮者コンクールで優勝
    これが小澤の怒涛の活躍の世界デビューの出発点となる
1960年5月
    ベルリンでカラヤンの弟子を選ぶコンクールで優勝
    ヘンベルト・フォン・カラヤンに師事する
1960年7月
    アメリカのタングルウッド音楽祭の指揮者コンクールで第1位
    クーゼヴィッキー大賞も受賞
1962年6月
    NHK交響楽団の指揮者に就任するが12月団員のボイコットにあう
 
これがきっかけで再度ニューヨークに渡る
1962年から4年間タングルウッド音楽祭の監督をつとめていたが
1973年
    38歳の若さでボストン交響楽団の第13代音楽監督に就任
    以来約30年間  地元ファンからの人気、評価は圧倒的で
    1985年の彼の50歳の誕生日コンサートには17734人の聴衆を集めた
1998年
    長野オリンピックの音楽監督
2002年
    ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートに
    東洋人指揮者として始めて指揮台にたちその模様は65カ国に中継された
    ウィーン国立歌劇場の音楽監督も2010年まで努めた
 
小澤征爾は昨年食道がんの手術を終え
2010年9月5日からのサイトー・キネン・オーケストラの復帰を目指していた
1992年から始まったこの音楽祭は彼が師事した
斉藤英雄没後の10周年の1984年に世界各地の斉藤の弟子たちが
集めメモリアルコンサートを開いたことがきっかけだ
 
彼は世界各地からの招聘を断り、あえてこのコンサートだけに集中専念していた
癌は克服したが15キロも痩せた為に腰の筋肉もなくなった
腰の筋肉が体を支えることが出来ない
結果、持病の腰痛が悪化する
主治医の先生からは制限時間10分の宣告を受けたと告白した
そんななかで
彼が選んだ曲は チャイコフスキーの弦楽セレナーデ 第一楽章
 
リハーサルも20分したら休息することが主治医の条件
しかしリハーサルの熱情は病気を持っている75歳の人間とは思えない
凄みがある
情熱を全身全霊で表す彼の姿勢は指先一本で
音楽そのものに命を吹き込んでいく
 
本番の7分間
指揮をしている姿そのものが魂の叫びだ
情熱をとことん体にこめて全身の動きでスイングする
そして圧倒的な目線の強さ
それはまるである種、舞踏家のようでもある
独自の1人舞踏とともに彼の音楽が作り出されていく
 
かって斉藤英雄が小澤に言った言葉がある
『 日本人は真っ白だから西洋人より有利だ 』
 
小澤は言う
それはどうだったかといわれるとそうでもないと思う
ただ日本人がどこまで西洋音楽を理解できるかという壮大な実験をしてきた
実験の結果は私が死んだあとに誰かが判断することだと語り
 
75歳という年齢を超えてなお
自分の中にあるすべての才能や情熱そして経験を
音楽や若い人の教育に情熱的な活動を繰り広げている
 
全力を尽くす努力とあくなき探究心
私も小澤さんの千分の一でも見習いたいと心から想った