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玉木修(日本米のルイ・ヴィトンを目指す)

米の海外輸出をたった一人で立ち向かった男
玉木修(31歳) 1979年8月8日新潟県生まれ
 
10代は自称暴走族
実家の米作りにかかわるようになったのは20歳 
2000年から田植えから秋の収穫まで4回米作りを経験
米価格の下落を体験する
時間と労力をかけ心をこめて作っているのになぜ報われないのか?
おかしいと考えた
24歳8ヶ月の頃、家の運営口座が資金ショートし賃金支払いが一時的にストップ
米作り農家にとって米価格の低下は将来の展望までなくしてしまう
何とかしなくてはと必死に思うようになる
 
その頃 玉木農園はコシヒカリを生産する15.5haの大規模経営農家
15.5haから94トンの米を収穫
価格が5%下がったらそれだけで数百万の減収
経営規模が大きいほどダメージは大きくなる
そこで考えたのが米の輸出
自分の米で世界に挑戦する良い機会だと考えた
 
新潟県ではモデル農家とも言われた父親とは激論をかわす
米価格が下落、しかも今後もその傾向が続く中、海外に市場を求める
今しかないと言って行動に出る
ターゲットとした国は美食の国、成長率も高い台湾だった

 精米したコシヒカリを10キロ持って単身で台湾に渡った
事前調査で台湾で米の売買や貿易をしている数社にファックスで送って
商談の話し合いをセットすると同時に大学生の中国語の通訳も雇った
最初に約束をした米販売会社の専務が
たった一人で来た玉木の度胸を気に入り商談に入った
何回目かの商談のとき
突然その専務が台湾トップの米販売会社に引き抜かれる
専務から「申し訳ない」と
世界で米取引をしている友人のリン社長を紹介される
これが運命の出会いとなる
 
リン社長からは玉木コシヒカリの味であれば十分台湾で売れる
まずスポット契約で輸出に踏みきる
2006年6月 9月新米が出来るまでの4ヶ月で2.4トンの初輸出

「日本米のルイ・ヴィトン」になってやろうと
衝撃的なデビューを計画する
リンさんに提案して台湾標準袋詰2Kベースで720台湾元という
超高値で売り出した
その価格は 円換算で1325円
その頃日本国内でも精米1キロベース 450円程度
あきれるような高い値段だった
 
これには玉木氏の綿密な市場調査の訳がある
生産農家だから失敗は許されない
販売先は台湾の日系デパートをメインにしたが
台湾デパートは委託販売が普通で賞味期限が来れば返品リスクがある
候補店の月曜日から日曜日、開店の10時から夜の10時まで
どの曜日のどの時間が売れるのか徹底的に調べた
その結果、デパートを2店に絞りこの価格で売れると確信した
 
2007年 17トン
2008年 22トン
2009年 50トン
 
輸出は順調どころか驚異的に伸びている
その裏にはブランドの付加価値をつけるたゆまぬ努力がある
有機肥料と海洋深層水で無農薬化をはかり
残留農薬検出ゼロを達成しその証明書があるということで
台湾の消費者への強いメッセージになっている
現在デパート向け、高級日本食レストラン、台湾レストランの業務用
これらが安定的な顧客だ
すべて買取契約だというから驚きだ
2007年からすでに種まき前に完売しているという
 
2010年度で輸出は150トンに伸びた
玉木は言う
今の円高は大きなリスクだが日本から米を輸出する場合
貿易パートナーと末端販売先が大切なポイント
 
売主の主力を海外に移せば国内米市場の縮小の影響は少なくなる
米の輸出は農業再生の一つの方法だと断言する玉木修
 
日本の米を活性化し、世界の市場にと切り拓く旗手でもある
TPPで日本の農業は存亡の危機と叫ばれる中
強い農業をめざし、積極的に海外に目を向ける
第2第3の玉木が出てくることを強く願う・・・・・