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宮崎キャビア誕生の秘話

1983年 旧ソ連との日ソ漁業科学技術協力の一環として

チョウザメの稚魚200匹が宮崎県にやってきた

将来はキャビア・・・・と大きく新聞記事として掲載された。

1984年から小林に勤務した神田さん(現宮崎水産試験場長)は

チョウザメの卵まではできたのだが物にはならないかもしれないと

次に赴任してきた稲野氏(現宮崎水産試験場小林支場長)に話したという。

稲野氏は研究を重ねたが何回やっても人工ふ化がうまくいかない、

国立研究開発法人水産総合研究センターにいた宮崎大学の先輩の藤井一則さんに教えを乞うた。

決め手はホルモン注射の時期だった。人工ふ化ができたのは平成3年、

宮崎は国に続き全国2例目となった。

数か月後に岩手の三セクのサンロックも人工ふ化を成功させた。

全国多数の県で人工ふ化の挑戦を試みたが結果的に成功したのは宮崎と岩手の2県だけしかなかった。

将来の事業を考えるとチョウザメのベステルは雑種なので原種がほしいと考えた。

サンロックとは定期的に情報交換をしていたので

平成5年サンロックの白チョウザメの稚魚を数千匹購入した。

しかも白チョウサメは魚肉が美味しい!

ここからのハードルが高かった、11年目の平成16年にやっと卵が確認できた、完全養殖が成功した。

しかし苦難は続く、稚魚の安定供給ができない 

稚魚を数万匹の量で安定供給できないと養殖業者も事業としても成り立たないのだ。

県内の養殖業者は異業種からの参入組ばかり 建設会社、農業、自営業などの7業者の方々 

8年間は無収入ですよと説明して我慢強く耐えていただいた!

養殖業者の皆さんにはその先の明確な夢があった それはキャビアという夢だ!

その養殖業者の熱意に押されるように宮崎県も動いた。

平成21年、22年とわずか稚魚は数千匹という程度、ふ化はするが数%の率だった。

 国内では研究者も技術もない、このままではだめだ!

テーマは稚魚の安定大量供給とキャビアの製造技術、

そのためにはキャビア先進地である外国を見て研修しなければ!

当時の毛良支場長は宮崎大学の先輩で

元福岡県水産海洋技術センター 内水面所長の稲田善和さんに相談した。

稲田さんは快く海外との交渉役を受け入れキャビア製造はイスラエルへ 

イスラエルの企業はフランスでも高い評価のキャビアを製造する技術を持っていた

稚魚の生産は白チョウザメの原産地であるカルフォルニア大学のアポイントを取ってくれた。

イスラエルには毛良氏と稲田氏が通訳としていった。

チョウザメの世界的権威ホルビッツ研究員は稲田さんが福岡で鮎の養殖を教えた人、

2008年10月稲田さんは日本に立ち寄ったホロビッツ夫妻を説得して

チョウザメの交流をしようと小林の支場を訪れた。

稲田さんは言う、

この時のホルビッツ氏の話が刺激になって海外視察のきっかけになったのではないか?

おかげでホルビッツ研究員は通常企業秘密として出さないこともアドバイスをしてくれた。 

稲田さんの縁は意外なところで大きな絆となった

 一方の稲野氏は試行錯誤しながら文献を読み漁るうちに

水温を下げるというキーワードにぶち当たった。

北米のカルフォルニア、サクラメント川では天然のシロチョウザメが捕れた。

カルフォルニア大学ではシロチョウザメの飼育マニュアルを出版しているほど。

稲野氏は平成22年11月カルフォルニア大学に出かけて行った。

カルフォルニア大学のジョエル技官に研修をしていただいた。

結果水温をある時期10度まで冷やす必要があることが分かった。

翌23年春成果が表れた その時の稚魚は数万匹という大きな数字 

努力が報われた瞬間だった! 

 毛良氏(現宮崎県水産政策課課長補佐)は

イスラエルでの製造アドバイスでキャビアの製造技術を2年という短期間でより進化させた

このアドバイスがなかったらキャビアはこんなに早く誕生できなかったと

その意味でも稲田さんはキャビア誕生の恩人だと・・・・

また熟成させるための缶づくりも県内の企業吉玉精鍍(株)に協力依頼をした。

東京大学、宮崎大学の協力もいただき産官学の連携でハードルを乗り越えていった、

また魚肉の美味しさアップは専用飼料の開発などを行いより光沢のある魚肉に仕上がっていった

チョウザメの魚肉には抗疲労成分をはじめ様々な健康成分が含まれることも確認された。

初めてのキャビア試作品をもって東京のホテルのシェフを回ったところ

高い評価を得ることで自信となった、

さらにモナリザの河野シェフ、シェラトンのギーシェフの協力を得ながら

2000回にも及ぶ実験の末、宮崎キャビアはようやく完成する 

販売を開始するまで30年という月日が経っていた