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花のいのち(瀬戸内寂聴)

4月上旬は

日本列島に桜前線が上昇していく

そんな花満開の季節にとっておきの本がある

瀬月内寂聴さんの「花のいのち」

最初に「花と蝶」のエッセイがあるのだが

とても心に深く残った文章なので是非ご紹介したい

 

花と蝶

 

良寛さんの詩に

花は無心にして蝶を招き

蝶は無心にして花を尋(たず)ぬ

というのがあります。

 

花はそれぞれに美しく、その花だけが持つもいい匂いを放っています。

けれども花は美しさや匂いで、

蝶を招きよせようという魂胆で咲いているのではありません。

ただ自然のはからいで、そこに花が咲けば、蝶が飛んでくるし

蝶が何気なく飛んでくれば。花は自然に蝶を迎えます。

花も蝶も無心なのです。

蝶が花の蜜を欲しがっても花はそれを拒まず、

蝶が満足するまで、提供します。

美しい自然の営みがそこにあります       。

秋の紅葉も、人に見せようとして紅葉するのではありません。

無心に約束通りに時が来れば紅葉するだけです。

それを美しいと、眺め訪れるのは人間だけです。

でも人間は蝶と違って無心ではなく、人が見ていなければ

美しい枝を折り取って持ち帰ったり、不埒なことをします。

人は欲に心が染まって、無心ではなくなっているからです。

 

人間でも、赤ん坊の心は生まれたままで無心の清らかさです。

赤ん坊の目が清らかなのは、心の清らかさを映しているからです。

人は成長するにつれて、無心の心を失い欲望を生じ心を濁らせます。

人間の欲望を、仏教では煩悩と呼びます。

人間の煩悩の数は、除夜の鐘と同じ百八つあるとされています。

仏教の百八つとは無限という意味です。

無限の煩悩から、人はあらゆる苦しみや悩みを心に生み出すのです。

煩悩はめらめらと炎を燃え上がらせているのです。

その熱さに心を焼かれ、人はいっそう苦しまねばなりません。

 

煩悩の炎を静め正常な心を取り戻そうとして、

人は思わず超自然の神や仏に手を合わせ、祈りを捧げたくなります。

神仏は無心の花のように、近ずく物を拒もうとはしません。

ただ黙って差し出されたその手に気が付き、

それにすがることができるのは、縁というもののはからいです。

幸いにして、宇宙の生命を司る神や仏と縁を結べた者は幸運です。

人はみな、生きている限り幸せになりたいと願っています。

 

幸せになる権利は人権と名付けられ、

どこの国でもそれを守る法律が定められています。

それなのに、生きているほとんどの人間が、現在の自分の立場に満足せず

もっと自分は幸福であるべきだと不平不満を心に抱いているのです。

分が過ぎた幸福の夢の欲望に、心を濁らせているからです。

 

美しい自然の、無心の奉仕を有難いと思い

その無償の愛に清められ、自分の心の濁りを洗いそそぎましょう。

その時こそ、よみがえらせた自分の無心に、はじめて

あふれる幸せを感じることができるでしょう。

 

深く深く心に染み入る言葉だ

どこまで私ができるかわからないが

改めて自然に感謝しながら

もっともっと!という煩悩という欲望を少しでも洗い流し

無心の心で生きていくことができればと考えている。